微生物と香り ミクロ世界のアロマの力
井上 重治 著 A5版 346頁 フレグランスジャーナル社 2002年発行 定価3,500円 ISBN4-89479-057-2
香りが微生物と深い関わりがあることは菌学者でもほとんど気がついていない.また,香りに関する出版物はたくさん出されているが,微生物の立場から香りの意義をまとめた書籍は世界的にもみあたらない.あたかも誰も知らなかった美しく巨大な未踏峰へ単独行し初登頂したような書籍が出版された.
第1章は微生物に関する導入である.先を急がれる方は次章から読み始めよう.第2章「微生物は多彩な香りをつくりだす」は,香りについての科学であり,菌学会の方々にははじめてという事項が多いはずである.微生物はどのように香りを感知するのか,カビやきのこの香気成分,沈香,伽羅,麝香,そして体臭や腋臭についてまでも言及されている.内容は科学的で,豊富な内容がよく整理されている.香り入門としてよい導入である.第3章「微生物は極上のフレーバーを提供する」は,発酵食品を例に,微生物がどのように食品の香気と味に関与するか,ある特定の物質がどのような物質に変化していくか,実証的に,具体的に,化学・薬学分野の著者らしく豊富な物質の構造式とともに紹介されていく.紹介される食品は吟醸酒,ワイン,醤油,漬物,くさや,など.第4章「香りによる微生物のコントロール(抗菌作用)」は本書の核心部のひとつである.アロマテラピーという技術が,いかに深く細菌や菌類の生育のコントロールに関わっているかを導入部分に据え,香りの化学成分の働きが実証的に論証されていく.「香りは3カ所でカビを抑制する」という項目には,著者の最新の研究成果も盛り込まれている.「香り分子はどんなしくみで抗菌作用をするのか」,「感染症分野での香りの効果」という項目もある.菌学者にとっては,何とそそられるタイトルではないか!第5章「香りでクロストークする微生物」も本書のもう一つの核心部である.「植物の香りで目覚める微生物」,「香りによる微生物同士の化学対話」という項目が並び,「地球生態系におけるアロマの役割」で締めくくられている.アロマという化学物質によって世界のつながりを解き明かそう,という著者の意欲がつたわってくる.巻末にある膨大な引用文献目録も,本分野のすそ野を広げようとする著者の熱意の現れである.
本書はとにかく情報量が多い.またあらゆる項目に対して,著者の深い化学の学識と経験が生かされていて,また実証的である.これからの研究のヒントとなるような材料がふんだんに盛り込まれている.すぐれた人は,たこつぼの学問分野をどんどん越境してやってくるものである.著者は明治製菓(株)で約40年間抗生物質の研究を続けてこられ,同社薬品総合研究所副所長,千葉大学真菌医学研究センター客員教授,などを歴任された経歴をもつ.65歳にしてふたたび微生物の研究にとりくまれ,香りと微生物の関わりについて新たな境地の開拓を試みられたものが本書であるという.著者と書評子の接点となったのは,書評子が勤務する博物館でヒマラヤの特別展を開催した折り,著者にカラコルムの写真展をお願いしたことにはじまる.著者は学生時代からの登山家でプロ並のカメラマンでもあり,写真集の著作も多数お持ちである.また日本菌学会会員でもあり,現在でも各地のきのこ採集会に参加しておられる.
本書を読んだあと,あなたの見る世界の風景は変わってしまったものになるであろう.本書は,そのタイトルからは想像できないくらい,先駆的な研究の紹介であると書評子は確信するものである.