菌学関係書籍の書評(評者 萩原 博光)
粘菌 ~驚くべき生命力の謎~
松本 淳 解説, 伊沢 正名 写真,誠文堂新光社,2007 年, A4 判・144 pp,3,675 円.ISBN:978-4-416-20711-6
新進気鋭の変形菌分類学研究者・松本氏の解説による本書は,出版されて1年が過ぎる.この 1年を振り返る と,「粘菌」というキーワードに惹かれた人たちに大きなインパクトを与えたようだ.国立科学博物館主催の関連行事は定員を超える盛況となり,日本変形菌研究会主催 の日帰り観察会には多くの非会員が参加した.
手にとってパラパラと見ればすぐに分かる通り,粘菌 のカラー写真集とも言える内容が中心である.対象生物を熟知したいと願う自称“写真職人”の伊沢氏による, 背景を写し込む極度の絞り込みと生き物に目線を合わせ たローアングルの撮影は,きのこやコケの写真ですでに高い評価を得ている.既存の類書に見られない大画面の迫力がインパクトの強さの原因と思われる.
本書の構成は,第 1 章「粘菌とはどういう生き物か」 28 頁,第 2 章「粘菌の世界」46 頁,第 3 章「生態系の中 の粘菌」12 頁,第 4 章「粘菌とは何か」20 頁,そして写真集としては付録的なモノクロ頁の「粘菌を学ぶ」27 頁からなり,最後に和名と学名の索引が載っている.
第 1 章では,導入部として素晴らしい写真とほどよく行き届いた解説で,学校の教科書にほとんどまったく出てこない粘菌という生き物がこの世に広く住んでいることを知ることとなる.しかし,アメーバ状の変形体,変形体から子実体への変身,未熟の瑞々しい子実体と乾いて粉っぽい子実体の組写真などを見て,この不思議な生き物をどのように頭の中に位置づけて良いか迷うに違いない.そのような迷いは,次の第 2 章を見ているうちに忘れてしまう.粘菌の形の面白さ,色の美しさが次々と現れ,「なんだ,この生き物は!」との感動をおぼえ,是非とも実物を見てみたいという気持ちにさせられる.第 3 章でがらりと雰囲気が変わる.1 枚 1 枚の写真から,「食う,食われる」という生き物の宿命とも言うべきドラマが展開する.きのこを食べる粘菌,昆虫などに食われる粘菌,さらにカビに侵される粘菌.最後の第 4 章は,哲学的なタイトルに期待するとうっちゃりを食らう.解説と写真が乖離しているにもかかわらず,写真が目立ちすぎているためかも知れない.解説を生かした工夫が必要だったように思われる.付録的なモノクロ頁は決して付録でなく,コーヒーブレイクの役割を果たす「漫画『風の谷のナウシカ』と粘菌」を挟んで 5 つのトピックから成り立っている.南方熊楠の活躍からロボットや情報処理という最先端の科学との結びつきまで各専門分野の研究者が紹介している.菌類に幅広く関心を持つ会員ばかりでなく,『ナウシカ』ファンや熊楠ファンにとっても必 見の書と言える.
本書の「粘菌」と同義の用語「変形菌」は,「変形体」と同様に日本の近代菌学の祖といっても過言ではない田中延次郎による造語で,その使用は分類学分野では定着している.一方,最近の高校の教科書に登場する粘菌は,本書でも紹介されている「細胞性粘菌」という異なる生き物であるにもかかわらず,しばしば両者は混同されて誤解を生じている.このような事情から評者は用語「変形菌」の普及に努めている.したがって,この書評を書くに当たっては本書の影響力が強いと思うだけにやや複 雑な気持ちであった.是非,誤解のないようにお願いしたい.
(評者 萩原 博光)